「いじめられている人」 誰かに相談する前に・・・

 「いじめ」という言葉を聞き、どういうイメージを持つか。私はまず「子どもの世界の単語」だ、と思った。「いじめ」という言葉は、大人の世界では使われない。たまに使っている大人もいるかもしれないが、それは「大人」としては欠格している人間だ。大人の世界には「存在しない」というのではない。「他者」の人権を攻撃する行為として、様々な具体的な言葉に分けられているのだ。
 「いじめ」と聞いても、私はさっぱり具体的なイメージがわかない。色々ありすぎて、想像しきれないし、的が絞れない。大人が具体像を描けないのだから、当事者の子どもも大変だろう。「いじめられた」と訴えれば、周囲の人間は(たぶん)聞いてくれる。何か行動してくれるかもしれない。がしかし、何も変わらないのだから。せっかく勇気を出して訴えたのに・・・と思うでしょ。でも、それは当たり前。
 どうしてか。結局、困っていることは「何」で、「原因」はなんなのか。「いじめられた」という訴えでは、何も分からないのだ。
 いや、もちろん、その人には「いじめられています」の後に、説明するのだろう。「こういうことがあって」「こうされて」「あっあのときにはこんなことされて」「でもこうだったかもしれない」「わたしがわるいのかも」「仕返ししたい」
 こう言われて、相談者がすることは何か。まずあなたをなぐさめることに多くの時間を割くはずだ。「つらかったね」と。でも「つらい」のはあたりまえだ。慰めよりも、「今」をなんとかしてほしいのだ。「つらい気持ち」は「事実」を正確に伝えていく過程で自然に伝わるはずだ。「冷静」になれない事情は承知の上で、以下のことができるように、願う。
 相談者に言うことは、「事実」とそれを「証明できる証拠」である。相談された人がまずやることは?「事実」を「正確」に把握することである。その把握に時間を掛けさせてはいけない。「事実」しか伝えないと、相談者は、他者に聞くこと(その調査内容が、相談者の今後の問題解決への行動を大きく左右する。)で「事実の認定」を行うことになる。それは時間が非常にかかることである。証拠隠滅、聴取拒否、根回し等何でもありの環境下で、である。そんな調査が真実を導ける訳はない。相談者が悪いのではない。誰でもそうするしかないのだ。「事実のみ」だと。「文部科学省」に手紙を書いた人がいた。よほど、切迫していたのだろう(これも前述の「慰め」。私は短いが)。しかし、これは解決の最も回り道である。今までに書いてきたことを読めば、通じるだろう。「文部科学省」から「現場担当者」へと訴えが届くまで、そして「事実認定」。気が遠くなる。
 今日はここまで。もし、「いじめられてる人(のみ)」で質問がある人は、コメントで・・・。