「いじめられている人」 誰かに相談する前に・・・ 2

昨日の続き。
 「事実」が認定されれば、事は、動く。「いじめ(私は、この言葉で一くくりに扱うことを好まないが)」を、解決するのは、これのみ。というところで、昨日は終えた。今日は・・・。
ひどく乱暴だが、子ども界の「いじめ」が、大人界の「刑事事件」と仮定しよう(ちょいと無理があるが、通ずるところは多々あるのだ)。「大人」が困って駆け込むところはどこか。「警察」と「病院」くらいのものだ。ここで「警察」に登場していただこう。一度友達が財布をとられた事件に遭遇したことがある。その時の経験から、書く。
 警察では「被害者(友人:いじめられた人と仮定する)」は住所氏名年齢職業から尋ねられた。「被害(いじめ)」の内容・実態は、後回しである。「誰が」「いつ」「どこで」「何をされた」という「事実認定」の「スタート」からはじまるわけだ。そして確定まで順を追う。警察の場合は、昨日書いた「慰め」はない。尋ね方もぞんざいだ。「殺人」といった「凶悪犯罪」でもおそらく同じだろう。「友人」は、冷徹に「事実認定」された。こんな目にあっても、「大人」は警察に行く。警察は「事実認定」の後「捜査」をしてくれる。犯人が捕まるかもしれないのだ。ただ、友人の財布をとった犯人は見つからなかったが。他に良いこと(?)もある。それは、警察が「認定」すると「保険」が適用になることだ。保険に入っていないと意味がないが・・・。
 私の言いたいことは、こうだ。警察の認定によって被害(いじめ)が「法」によって救済される道がスタートする。ということなのだ。昨日、以下のように書いた。
 大人の世界には「存在しない」というのではない。「他者」の人権を攻撃する行為として、様々な具体的な言葉に分けられているのだ。
 と。そうなのだ。上記の例は「盗難」だ。そして、「盗難」と「定義(事実認定)」することで、この「被害(いじめ)」を救済する具体策「金銭的補償」がスタートする。ここで注意して欲しいのは「金銭的」というところだ。それは、「犯人を見つけてやっつける」ことが補償ではないのだ。盗られたものを物理的にその場所に戻すこと。すなわち、心理的苦痛に関しては、勘案されない。戻ってこない。そもそも傷ついた心は、元に戻らないのだ。元気になれないというのではない。心理的苦痛を味わう前の状態にはなれないでしょ。これも「子ども」界(これは子どもを蔑む気持ちからではなく、区別してわかりやすくしようという配慮から使っている。あしからず)の「いじめ」に通ずる。つまり「いじめ」の「解決」のかたちとは、安心して過ごせる新しい環境の創造だから。
 さて、きちんと「いじめ」に戻ろう。「子ども」間で、解決することは不可能だ。なぜなら、昔のように上下関係というか、個々の「子ども」間の位置が明確でなく、「集団」として成り立っていないからだ。大人界の「法」がないのである。さて。では「大人」になんとかしてもらおう。そうだ「大人」しかいないのだ。大人もぜひ頼って欲しいのだ。
 ただ「大人」はスーパーマンではない。「子ども」の延長上にいる。確かに多少の知恵がある。しかし、自分が見ていないもの・聞いていないことを判断することはできない。「大人」は、話だけ・事実だけで考えないように・物事を決めないようにしている。数多く失敗してきてるから。それに加えて「子ども」界に介入するときの「大人」は慎重になる。「子ども」界を出来るだけ壊したくないのだ。そんな大人の気持ちも分かって欲しい。
 「いじめ」にあった・ている人(くどいようだが、この言葉ではどんな仕打ちにあったか分からないのだが)が、どのくらいつらいのかは、私もこれまで生きてきて、少し分かる。そんなつらさを知ってしまった人たちに、こう言うのもつらい。が、言う。
 「つらいこと」を「なんとか」するために、もう少し努力しよう。「事実」を「証拠」を、つかめ、と。「大人」になんとかさせて欲しい。そう思う日々だ。