「指揮者は棒振り」

 もうかなり前になる。小澤征爾さんが故郷の「しんよう(中国)」に行き、地元のオーケストラと競演するドキュメンタリー番組があった。「赤い夕日」というタイトルである。
 「指揮者」という仕事について、未知だった。棒を振っているだけで「拍手喝采」。それも並の賞賛ではない。あれだけの感動を聴衆に与えるということは、「指揮者」という仕事が「半端」ではないものに違いない、と漠然と思っていた。クラシックというものに興味がなく、聞いても音色の違いなどさっぱり分からない私は、「指揮者」の「(聴衆に与える)現象」から、その「力」について想像していたのである。ただ、具体的に指揮者が「何」をしているかは、全く想像しようがなかった。
 TVを見て、「感動する」ということがほとんどない私だが、その番組を見たとき、久しぶりに心が動いた。今までの「謎」が「氷解」した思いだった。「本」では味わえない感覚だ。
 「指揮者」の「神髄」は曲の「解釈」である。と私は読みとった。「指揮者」が楽譜を読み解き、オーケストラがその解釈の「具現化」の役割を担う。曲名が同じでも、「指揮者」が違えば、全く違う曲になり得る、ということなのだ。そこに「指揮者」の存在意義がある。
 「指揮者」の仕事の一番の山場は、どこか。それは、演奏会ではないのだ。極論すれば、演奏会に指揮者がいなくてもよいのだ。「具現化」の過程で指揮者が自分の解釈を伝える。そこが山場なのだ。小澤征爾さんが、曲の演奏前に控え室で楽譜をぱらぱらめくっている場面があった。めくりながら「ここは(オーケストラに)伝えた」「ここも伝えた」最後のページをめくの終えたとき、「よし」とその「目」が言っていた。俗な言い方だが、かっこよかった。その時の曲「エグモント序曲」は、今でも私の宝物の歌、である。