「おしん」が嫌い

 TVがどうでもよくなった(見ても見なくてもよい)のは、いつからだろう。昔から、悲しいドラマが大の苦手だった。共感しないから。と言うのではない。共感しすぎてしまうのだ。一緒に「もう人生終わり」という気分になってしまうからなのだ。「小公女セーラ」「橋田壽賀子さんのドラマ」等、挙げていくときりがない。疲れてしまう。「じゃあ見なきゃいいじゃない」とみなさん言うだろう。しかし、アメリカの邸宅ならともかく、日本の住宅の中で自分以外の家族全員が見ているモノを、それだけの理由(私としては立派なモノだが)で「消して」というのは無理である。見ている人が一人の場合は「イヤホンして」など逃げ道はあるのだが。そうしてTVから私は遠ざかり、いつのまにか「TV」そのものに関心が薄くなったのだ。ただし「映画」は別。まぁTVの映画を見ることはあまりないが。
 見なければ見ないで、生きていくのに何ら支障はない。うん、快適と言っていいくらいだ。
 ただ、「今」の情報に触れたいという欲求は人並みにある。では何から得るのか。私は、新聞がお気に入りである。新聞は、1面から読む。順序よくめくって、あまり関心がないモノは深く立ち入らない。気になったモノは、繰り返して読み、頭に置いておく。これがいいとこだ。関心のないところをすっとばせるところである。「自己決定」は人間の精神衛生上必要な行為だが、TVだと私はそれができない。欲しい欲しくないにかかわらず、頭に入ってしまうからだ。やはり新聞だ。最近は、ネットの速報版がお気に入りで、一日数度はチェックする。夜中にチェックしたことが翌朝の朝刊にのっていたりするので、より深く読める。良い時代になったモノだ。