というセリフが入るCM知っているだろうか。ずいぶん前の「○○ハンバーグ」のCMだ。
私は子がいて「親」の身分(?)だが、我が子と関わっている時によく頭に浮かぶのが、このセリフだ。素直にただ大きくなればいい、と思っているわけではない。「幸せ」に・・・、と思っているわけでもない。もちろん幸せになってくれればうれしいだろうが、それは、私がが考えることではないからだ。
誤解しないで欲しい
理屈をこねるようだが、「幸せ」というのは、「心」のある時点の「状態」である。到達点にはなり得ない。一時「幸せ」と思えても、いまわの際に「不幸」かもしれないのである。一時の「幸せ」を「幸せ」と呼ぶのなら、誰しも「幸せ」と言えるはずなのだ。
言い古された感があるが、「幸せ」は「自分」でつかむものだ。「幸せ」な状態が続くよう努力し、時に「不幸」を重ねながら、やっといくばくかの「幸せ」を手にする。そんな苦労があるから1つの「幸せ」をより「幸せ」と感じられるのではないだろうか。
私が我が子に備わることを願う力は、そんな「力」なのだ。
大きくなって、自分で自分の「幸せ」を引き寄せられるよう、「力」をつけてあげたい。その手伝いがしたい、と思うのだ。
もちろんそんな「力」が、どうやってつくかという方法論は持ち合わせていない。
世界中探しても、そんな「力」育成について確固たる裏付けが出来ている教育プログラムなどないだろう。
そもそも、「人間」を意図的に「こんな人間」にする、という試みは「教育」的にナンセンスなのである。
「できるだけ」を尽くし、「本人」がどう変化するかを見守る。その「見守る」部分に「教育」の神髄があると、私は思っている。
親に出来る子に対する配慮は、少ないようで多い、と感じる。
子が手にする「情報」の選別(言葉は悪いが)もそうだ。難しいようだが、実は簡単だ。
「レンタル店で借りるもの(子どもが見るもの)を適当に決めない」だとか
「一緒に見るTV番組を、考えて決める。」等でもいいのだ。
子どもは感受性が強いだけに、一言一句理解が出来なくても頭に入ってくる「情報」を「それなり」に整理し、自分のものとする。その「それなり」が問題なのだ。
「社会」で生きていくために必要な力の一つとして、「公平な価値観」は不可欠だろう。たとえ「本人の思い」が他とはかけ離れたものであっても、他者の考え、出来事を判断できなくてはいけないからだ。
その「価値観」を養うものとして日々の「生活」は最適の学習フィールドである。
他にも多々あるだろう。
ただ、学ぶことが多々あるといっても、親が常住坐臥気を張っていればいい、というわけではない。
前にも書いたが、子も大人も同じ人間である。
学ぶ必然・関わる必然がなければ、両者の関係は意味をなさなくなってしまう。
要は「きっかけ」である。
子に「かわいいでしょ」と言われたら「かわいいね」。ご飯を残したら「大きくなって欲しいな」。積み木が崩れたら「いやぁー残念」。
共に生き、生活していく中で、「実」のある親子でいたい。
「おおきくなってよぉ~」