「細木さん曰く・・・」

 「頼み事は、神様にはいいけれど、仏様にはだめなんだって・・・。」お正月の帰省で義理の母から「細木さん」の言葉として教えてもらった。へー。いいこと聞いたなぁ、と思って、今までの「祈り」を思い出してみた。
 ちなみに今年はこんなことである。
 神様には「今年は家族が皆元気で過ごせますように」(まぁ頼み事)
 仏様には「まぁ(家族・自分が)こんなものです。また一年頑張ります(宣言)」
 例年同じようなことを「祈り」としている。
 つまり、「細木」さんの言うとおりしているわわけだ。
 祖母の言葉で長く記憶している言葉に「ほっとけ仏様」という言葉がある。今大人になって思い返すと、その言葉は、若い者にあまり仏様に縛られないようにとの気遣いの言葉だ。一つ一つ覚えていないが、「神」「仏」に対して、こう接しなさいという年配者からの無言の教えが、私の「祈り」が正しかった根底にあるのだろう。
 「細木」さんがTVで期待される役割として、「日本の風習・習わしに関する見識者」としての一面があるだろう。「風習・習わし」というのは、合理的(成立した時代の価値観からすると合理的と言えるのだろうが)なものではなく、頭で考えても分からない。歴史的観点から見ると理解出来るのだろうが、おおかたその伝わり方というのは、世代間の口承に依ることが多いのだ。
 「犬神家の一族」と聞いてどんな印象を持たれるだろうか。おそらく、(金田一探偵の有無に関係なく)不吉な印象を抱く人が多いのではないか。その一つの理由として「一族」って何?というくらい、「一族」という集団が集団として成立しなくなってきた世相を表している。「一族」のなかでは至上命題が存在する。「血統の存続」である。「目の中に入れても痛くない孫」といった考え方は存在せず(ちょっと極端だが)、長男から長男へと「血(家系、財産~家訓・家財等)」が続いていくことが何より守られるべき事なのだ。これも身分・収入が世襲だった歴史をたどると、納得がいくもので、何らおかしなものでも何でもない。当時としては当たり前の価値観である。
 現代は、「社会」のなかで中心となる小集団の単位が、世代間の情報の引き継ぎがしやすい「一族」から「核家族(親子のみの集団)」へと移り変わってきた。時代の流れとして仕方のないところだが、若い世代の人間は、人生の先輩が持つ「情報」をどこから手に入れればよいか苦労することになった。最も欲しい情報は、「冠婚葬祭」に関してだろう。古きも新しきも必ず行われる事だからだ。
 そこで注目されているのが「細木」さんな訳だ。伝えるスタイルは、「言いっぱなし」。反論出来ない若者としては仕方ない。聞くばかりだろう。だって「昔から決まっているのだから」。
 でも、皆さん。周囲に目を向けて。人生の先輩達がどこにでもいるじゃないですか。そりゃ、「細木」さんは立派ですよ。TVだから間違ったことは言えないわけで、発言も練っている。でも、TVから教えてもらうんですか。先代の教えを。
 「口承」で教えてもらいましょう。隣の人生の先輩に。私たちの代で終わらないように・・・。また下の世代に「口承」で伝えられるように、勉強しておかなきゃいけませんね。