KY(ココロヤサシク)。~今の歌「ZOO ECHOES」

「KY」

 こういった言葉が周りで使われ始め

 賛否両論なのを 


 いたたまれないな気分で見つめている


 こと「KY」に関しては ちょっと思うのだ

 「場」の雰囲気を読んで従うのか あえて従わないのか という選択権が私たちにはある

 「場」ということは そこにはある一定以上の「集団」が存在している

 
 あまりいい言葉ではないが 衆愚政治なんて言葉もある 

 「KY」のいうところの「K」とは衆愚の衆の「K」な語感だ

 多数が弱者を駆逐する という 語感

 
 「KY」では生きていけない 

 人は言うべき時には言わねばならない 決断しなくてはならない 人生は 決断の連続ではないか

 責任は自分自身が負うが 決断によって生じた結果もまた 自分だけのものだ


自分にしかできない そう思うからこそ

 仕事に打ち込めるのではないか


 あのひとしかいない 

 そう思って パートナーを選ぶのではないか


 そうして 一握りの幸せをつかめる

 自分の幸せを
 
 



 しかし

 
 「KY」が話題に上がり

 一緒に笑う自分が 

 悲しい 本当に楽しく笑ってるように笑う自分が


 そうなのだ

 私は 空気なぞ 読みたくないのだ

 読めば読むほど流される 自分が嫌いなのだ 変転する自分が 許せないのだ 

 


 ところで

 
 歴史の回転のキーパーソンは

 アンチ「KY」の人である気がする

 その人が幸せだったかは 別にして(人の幸せなど 決められる立場にないが)


 歴史に記載されるというのは 自分では決められない

 ただ 後生の人が書き散らかした でもない

 意図を持ち 記された歴史
 


 

 ただ 社会の変化を感じる

 求められる資質の変化

 体力 頭の回転力 ではなく 他の人とのコミュニケーション能力


 そんなんで この言葉は生まれてきたんだろうなぁ と


 求められる力が変わってきた というのは

 今まで脚光が当たらなかった人が 活躍できるということだ

 そういう意味では 人の価値が一つまた上がったということだろうか 


 
 


 でも

 必要な力など

 たった少しの優しさが込められるだけで いいのに と
  


 http://www.youtube.com/v/mZhaftqE2bw&rel=1