「伝える」ということ⑥ ~つけたし感想文~

 ∥召涼かに自分の「思い」を「伝える」時、どんな手段があるだろう。
 
 「伝える」という言い方は、それのみで「自分の考えを」「他者に」という方向性を明確に持つ。
「伝える」意思の有無にかかわらず、「伝わってしまう」こともあるからだろうか。

 人間は、たくさんの「部品」の集合体だ。「人差し指」の動かし方一つであっても、注視している者がいれば、なにがしかの「意思」がその動きから読みとられる。もちろん、その情報の正当性については、議論の余地も生ずるが、相手が、自分のことを「よく知る」人であれば、まさに「指一本」で全てが伝わることもある。もちろん、物理的な「きっかけ」だけでなく「言い回し」といった文字情報(?)においても同様であろう。
 
 私は、何かしている時、我が「子」の視線を感じる。苛立つ時の物言いを聞いている子どもの「耳」の存在を感じる。子どもは、意図せずに「データ」の蓄積を行っているのである。いつか使うために。子どもが「辛い」時「こうしよう」と思えるような「データ」。「幸せ」な時、より、それを実感できるような「データ」が、我が子の「心」に残るよう、日々暮らしている。まぁ、正直に生きようとしているのだ。自分のためでもあるが。

◆ 崚舛┐燭ぁ廚發里髻△△蠅里泙沺崚舛┐燭ぁ廖Cしも思うことだろう。

 しかし、それは、意外に難しい。完璧にできる人、います?いないはずである。
 
 我々人間は「伝え」たい。

 「伝える」ことは「生きる」ことだから。
 その「伝え」方にこそ、その人そのものが現れる。
 やさしい人はやさしく。自分が全ての人は、そのように。外見は、その人そのものではない。「伝える」活動の端々に、全てに、その人の人間性がにじむのだ。
 
 どんな人であっても「伝えたい」という気持ちがある。
 自分の「伝え方」に満足することはない。「頂点」はないのだ。日々試されているのだから。
 仮に「伝えたい」ことが「伝わら」なくとも絶望することはない。
 「伝える」ことは生きていくこと。生きていくことは続いていくこと。続くなかで、変えていけばいいのだ。

 ただ、変える「努力」は当然必要だ。
 私も、道半ばである。「変えたい」と切に思う。
 
 「半分」でも「伝わって」ほしい、と思うと残りに「嘘」が入る。この「嘘」がくせものだ。たとえ「嘘」はなくとも「伝えたい」はずの「思い」は半分に薄まってしまっている。

 では、真正直に全てをさらすことが、思いを「ありのまま」「伝える」ことだろうか。誰しも受け入れたくない事実・価値観があることを無視して。
 
 「全てさらす」ということは、「伝え方」の一つだが、そこには雑多な情報も含まれる。「そこ」に至る経緯から「結論・結果」まで。途中の経過・憶測も含めての「話」になる。結局このやり方は、相手に全ての判断を委ね、相手に「話者のありのまま」を作り上げてもらう、という方法である。
 
 自分の「ありのまま」は、相手次第というわけだ。しかし、どんなに賢い相手でも、自分には、なれない。「伝えたい」ことは自分の「ありのまま」からずれていく。

 私は、自分の「思い」を自身の言葉で相手に伝えたい。少しでも「ありのまま」に近づくために。
 
 そのために、やっておきたいことがある。それは「自分の考え」を整理しておくことだ。
 ただ、「他者がわかりやすく、かつ受け入れやすい」ように、という(当たり前だが難しい)条件を自らに課したい。この条件を満たすためには、「伝えたい」「他者」について、よく考えておく必要がある。その人の日々の言い回し(ものの考え方)、嗜好、といった価値観である。
 日々変わる「相手」「状況」に一人一人できるか!という声も出そうだが、難しいことはない。

 相手の話をじっくり聞くだけでいい。それだけで、相手の「心」に入れる。「入れない」と感じるならば、足りないのだ。
「伝える」相手が集団であれば、その集団の「質」を考える。「世代」といった集団の構成要素である。他にも、「成り立ち」といった歴史的側面について理解が必要だ。まだ、あるだろう。
 
 他者に「伝える」内容というのは、あらゆる内容を含むだろう。前述したように、相手が受け入れにくい「事実」のこともある。
 
 もしくは、「伝えられた事実」に対して、相手がどう反応するか不明、ということもあるだろう。

 「あえて伝える」以上、こういった「事実」に関することの方が多いかもしれない。「伝えない」「言わない」「事実」の中には、「必要性」や「緊急性」が希薄だから、また、「当然」だからといった状況が考えられるからだ。
 
ぁ,海海如◆崚舛┐詁睛董廚砲弔い董TVやラジオといった、「メディア」を例に挙げて考えてみる。
 不特定多数を相手にした情報発信をしている場合は、そのどちらもバランスよく発信せざるを得ない。
 
 単純にいえば、視聴者が見たい・聞きたい内容でなければ「スポンサー」が付かないからだ。
 
 注意が必要なのは、「バランスよく」というところだ。視聴者の「耳ざわり」のいい情報発信に特化する恐れがあるわけである。今、社会にあふれている「情報」の「どこ」を切り取ってどんな「バランス」で発信しているか。
 そんなことを考えながら見たり聞いたりすると、なかなか興味深い。

 「新聞」というメディアは事情がやや異なる。「購読者」が「スポンサー」という点においてだ。このため、「○○新聞」は「どっち寄り(思想的に)」といった見方があるように、「主張」ができるのである。購読者は、この「主張」をもとに、どの「新聞」を選ぶか決めるのだ。
 
 TV・ラジオに戻るが、「スポンサー」あっての商売だから、局としての「主張」がそれほどできない、というのは仕方のないことだろう。そして各局とも、おのおのの部署でおのおのの番組を作っているわけだ。ただ、「ニュース」「バラエティ」といった各ジャンルの「構成」を考えている「方々」の存在というのは、あまりク
ローズアップされない。「番組改編」といってもあまり変わらないところを見ると、「慎重」であることは疑いない。というか、「スポンサー」に縛られ、変えられない、というのが事実だと思うが。私がNHKさんに期待するのはここである。

 NHKは、スポンサーが「国(国民)」であり、「特化」する、といった危険性がない。(完全ではないが)非営利なのだ。建前としては、我々国民が望むもの・益になることを放送する義務があり、内容構成は、その只一点に絞られて制作されているはずだからである。「目標」が明確なのだ。純粋に(営利目的でなく)視聴者が「何を見たいか」「知りたいか」「客観的に見て、得になる情報」の「リサーチ」から「伝える」情報を決められる環境にあるTV局なのである。
 
ァ\茲忙笋蓮以下のように述べた。

 「伝えられた事実」に対して、相手がどう反応するか不明、ということもあるだろう、と。

 「情報」には、「知りたくない」が「知らなければいけない」こと。ものが存在する。
 広いところでは、「戦争」「事故」「疾病」等々であろうか。
 狭いところでは、「(自分の)失敗・弱点・能力上の壁」等か。

 自分のことであれば「知らなければいけない」
 他者に対しては「伝えなければいけない」ことである。「それ」によって、周囲にネガティヴな要件が
起きるのであれば、「伝える」ことは必至である。

 「伝える」以上、その情報に対して「知る」「認める」「意見を述べる」等のリアクションが「伝える」側としては欲しいところだ。それによって相手にどれだけ「伝わったか」量ることができるからだ。

 司馬遼太郎さんの小説のなかに、江戸末期を描いた作品がある。
 その中の一場面に、登場人物Aが登場人物Bに「モノ」を渡す場面がある。
  えらく端折って述べると、AがBに「あること」について言い渡す(「伝える」)、ということがその場面の主題だった。その場面での「モノ」の役割は何か。
 
 それは、「伝えた」「伝わった」ということを両者で強固に確認し合うアイテム、としての役割なのだ。
 
 司馬さんは「司馬史観(司馬さんが小説を書く際に造り上げた歴史観)」という言葉があるほど、時代考証に一本、筋が通った方である。

 江戸時代の人間は、「伝わった」ことを相互に確認する方法として、そんな方法を編み出していた。いつの時代も、「伝える」ことは難しいのである。

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 2つ以上の「個」があり、それらの結びつきが強固な関係を表す「単語」はいくつもある。

 結びつき、というのは抽象的だ。

 自らの真意を「伝える」ことの難しさゆえに、これらの言葉が生まれてきたのではないのだろうか。

 長い人間の歴史のなかで、「特別」だからこそ、定義され「単語」として成立したのである。

 私は「伝える」ことの意味深さを感じるのだ。こういった言葉達を使うたび。
 

つづく