「井川投手」酷評の こころ。

新聞、テレビ、雑誌、インターネット。

 我々が情報を得る「媒体」は多岐に渡る。

 気に入ったモノに関して徹底して集めるもよし、広く浅く集めるもよし、だ。

 
 「媒体」が伝えるモノは何か。何らかの認定に基づく「事実」をもとにした「判断」である。

 重要なのは「事実」のはずである。「判断」はあくまで判断である。二次的なのだ。その「判断」

とは「違った判断」が常にあり得るはずだからだ。
 
 しかし実際は、その「判断」を既定のモノ(事実)とし、視聴者を「煽る」目的としか考えられない情

報が溢れている。


 渡米した井川投手が「酷評」だそうだ。

 「コントロールがない」他、「事実」に基づく「断定」をされている。先発枠から外せ。使い物にな

らない、と。首をひねってしまう。そこまで言えるの?と。


 シーズン後結果を残せなければ「酷評側」は「ほうらいったでしょ」となる。

 結果を残せば「擁護側」が「ほうら・・・」となるだけなのだが。

 「媒体」というのは勝手なモノだ。「私間違っていました」という発信はせずとも良いのだから。

 
 勝手な「判断」をまき散らすことが許されている。

 ただ、私たちはだまされてはいけない。

 自らの「判断」が求められている。


 近年、テレビ番組に「評論家」や大勢の「(各種機関の代弁者たる)ゲスト」が登場し、機会事に何か

 「判断」を求められ、語るといった「スタイル」が増えてきた。娯楽番組ではなくニュースにおいてで

ある。

 一段深い「事実」に迫るため、「専門家」の見識・見解を求めるのは一つのやり方だが、最近のニュー

スは、やりすぎの感がある。視聴者が求めている、と言うのだろうが、なめている。私たちを。

 
 言いなりになってはいけないのだ。「媒体」に。

 「避難勧告」ぐらいだ。言いなりになって良いのは。

 私は「事実」を知り「判断」をしたい。自分で。