「ごねる」は「こねる」

 さっき、子どもが「ごねて」いた。ごねるは、こねるからだろうか。自らの希望を。
 子どもは可能性の固まりだ。少しずつ面白くなくなり、大人になっていく。
 子ども特有の意志の通し方に「ごねる」ことがある。大人にはないでしょう。たぶん。
 「どうしてもやりたいこと」があり、「何か」の理由でそれが「叶わない」時の行動と、ここでは定義しよう。自分の意志を通すやり方の一つなのである。「根回し」「強談」「泣き落とし」等と同列なのだ。どこでもだれでも「ごね」られる訳ではない。条件がある。
 
 ・行動を監督する人間がいる。(自分で責任が取れない段階、と判断されている)
 ・その希望が、自己本位な内容である。(他人~監督者を含む~に迷惑がかかる、もしくは長い目で見  て当人のためにならないこと)
 ・そばに監督者以外の人間がいること。
  等々である。他にもあるかもしれないが、まぁここまで。
 
 一人きりだと、ごねられない。また、その場で当然の行為だと、認められるため「ごねる」必要がない。そして、周りからの「鶴の一声」による事態の打開も視野に入れた行為なので、観衆が必要である。 親は、子どもを一人前になるまで保護する責任がある。大人になると、「一人きり」だ。自分の稼ぎで生活しなければいけないし、朝の食事のメニューから、いつトイレに行くかまで自分で決めなきゃいけない。自己決定は喜びでもあるが、責任が伴うわけだ。人を傷つければ責めを負うわけだし、借金すれば自分の食い扶持から払うことになる。
 「ごねる」という意志を伝える手段は、そこでは使えない。使えば、「信用」を失う。社会人としては「死」んでしまうのだ。
 だから親は、子が「ごねる」ことで自分の意志を通す機会を奪う必要がある、と私は考える。どんな状況下でもだ。
 ただ、その対象は「ごねる」という手段のみだ。「意志」自体はかたちを変えて「生きる」ようにしなくては、「ごねる」機会を摘むことが生きない。「意志」を通すことは「生きる」上で不可欠だからだ。大人の人に言う。「(ある程度は)やりたいことやってるでしょ」と。
 自己実現というのは「生活の質」を左右する。子の思いをかたちを変えて実現に導くことで、「ごねる」よりも有効な手段があると、子が自ら悟る。または「自分の思いを、こう変化させれば、実現するんだ」という経験を積む。これが大切だと思うのである。
「ごねる」は「こねる」。こねてかたちを変え、完成に至るということか。
 だから、子が「ごね」ている時、というのは、子が大人になった時の「生計を立てる力」「生活の質を高める(生き甲斐を持つ)力」を育てる絶好の機会と言っても過言ではないのである。
 と打っている間に、我が子は寝てしまった・・・。