「幸せな人に介護されると幸せになる。」

 昨日ニュースで

 フィリピン人看護師・介護福祉士受け入れ制度についての特集を組んでいた

 そのなかで 開いた口がふさがらなかったセリフがあって 書かせてもらう


 フィリピンは豊富かつ優秀な人材を提供できる

 日本は来るべき高齢化社会に備えることができる

 双方メリットがあるという前提で 計画され 実行に移されるこの施策 


 この施策を どうとらえるか というのがこの特集のテーマ


 番組としては 

 人材養成 コミュニケーション 4年という年限(この年限で国家資格取得が在留の条件)介護の質

 といった観点から 実施に警鐘を鳴らす内容だった


 その内容は一旦置かせてもらう


 施策の実施にネガティブな情報が挙げられるなか

 東京の大学の女性の教授が それを裏打ちするように述べた その内容に驚いたのだ

 「幸せな人が介護を行わなければ(介護される人も)幸せになれない」という箇所だ


 この人は介護の専門家らしいのだが

 あまりにも一面的な理解の上に立った見解に

 ぷちん と頭のなかで切れる感じがした


 きっと 私自身疲れているからと自覚しつつ

 この人も悪い人ではないのだろう

 そう思いつつも


 この人は 

 「この施策では 来日したフィリピンの人の大多数が幸せになれない」

 「そんな状態では質の高い介護は望めない」と言いたいのだ 


 しかし 私は思うのだ


 
 「ケアの質」というのは 介護に携わる者の心理的状態に依存する のだろうか

  

 介護経験のない私がこんなことを言うのは僭越なのだが

 介護というのは 誰しも受けたくない そうではないだろうか

 誰にも迷惑をかけたくない というのは 良識を持った人間なら誰しも思うことだろう


 それを超越し 介護を必要とする人間が多くいる

 「申し訳ない」「当然だ」「どうでもいいこと」「・・・(介護を受けている認識がない)」

 介護を受け入れる心理的状態のレベルは人により様々で


 それぞれの状態にあったメンタル・ライフ・メディカルケアが必要だろう

 介護の主体が家族では 気兼ねがないが十分なライフ・メディカルケアが望めない

 介護施設では 気兼ねする分 十分なライフ・メディカルケアが受けられる


 なんてことが頭に浮かぶが

 どちらも 一概にそうとはいえないのが 「人と人」が織りなす出来事に拠るからだ

 

 介護される人間としては「する側が迷惑に思っていないか」

 介護する人間としては「される側が快適に思ってくれているか」

 この両者がかみ合った時 初めてうまくいくものだろう 


 この意志交換のみが「介護の質」を決めるのだ


 気付くだろうか


 これは「生活の質」なのだ


 介護うんぬんではなく 

 相手を思うこと

 生きること ではないか


 なにが幸せで 幸せでないかは 

 人の数だけ 尺度があろう

 不幸せな人はずっと不幸せ 幸せな人はずっと幸せだろうか


 そんなことはない


 人は皆 その間を行き来しているのだ

 
 施策を批判するのはいい

 しかし その結論を導きたい故に

 テキトーなことを言ってはいけない


 



 あぁ つかれてるなぁ・・・