「残虐性とその罪。親とは~あの高校生」

 母親を切断した、あの高校生。

 誰しもおぞましさから来る不安とと怒りを感じたことだろう。

 ふと思った。あの高校生は、のこぎりで木を切ったことがあるのかと。


 のこぎりを正しく(この事件はもはや正しい正しくないの次元では語れないかもしれないが)使う。

 それは、創りだす行為に他ならない。

 また、危険を学ぶ学習に他ならない。


 どう考えても、のこぎりで木を切ったことがない人と断言せざるを得ない。

 あの子は。

 精神鑑定だそうだ。動機と犯した犯罪が釣り合わない、つながらないのだ。


 「死刑」を免れたくて、というのではない。

 おそらく、本音で自分の行為を淡々と語っているものと推測される。

 そんな処世術が身に付く環境にはない。


 罪があればそれを償う罰がある。

 この子は償えない。償いきれないといっていい。途方もない罪だからだ。

 
 親子は人と人とのつながりの中でもより上位にある関係だと誰しも認識している。


 その相手を殺してしまった。かつ死体を損壊している。

 「本音」を語る内、少年は悟っていくのだろう。自分の罪を。

 罪を犯してしまった彼には、罪を感じる手がかりがいくつもある。


 そんな手がかりを何度も反芻する中で、いつか気付く。たとえ20年先のことであろうとも。

 あの少年には、時間がたっぷり与えられるだろう。あせることは何もない。

 「とんでもないことをしてしまった」と気付くのだ。60年先かもしれないが。


 人の痛みを知るには、自分の痛みを感じることが手っ取り早い。望ましいことではないが。

 若い彼は、自分の身体が痛んでいくなんて思いもよらないだろう。今は。

 しかし、時間が彼を包んでいく。前述したが、時間はたっぷりとあるのだ。


 老いていく中で、彼は痛みを知っていく。老衰で死ねる人などごく少数だ。

 母親が死をもって残したもの。

 自らの痛みと母親の痛みが、彼を我に返す日。


 親の役目は子を「人」にすること。

 彼の母親は、結果としてその責任を果たすのではないか。そう考えるしか母親は浮かばれない。

 私も親として、その母親に思いをはせている。合掌。