「医」に思う

 小さい時、医者になりたかった。

 ならなかった、のだが。

 医大を目指していたわけでもない。「夢」としてはひどくお粗末だ。

 ただ、今でも「憧れ」がある。

 
 そのせいか、病院にかかると、医師の「仕草」や「言動」「医療行為の進め方」など注視する癖があ

る。

 個々の医師の能力、といった点は置いておき、医者とは辛い仕事だと思う。

 「深めにくい」「極めにくい」仕事だとおもうのである。

 「仕事として」自らの研究をである。

 人間は生き物だ。不調は必ず出てくる。
 
 「様々な不調・病気を全て根絶することは不可能」

という前提で考えると、「医者」の職責とは、よくある症状であれば早めに快癒するべく善処することで

あり、一般的でない症状であれば、その症状に至った因果関係を明らかにし、「正常」に戻るための「ケ

ア」のプランを患者に提示し施すことであろう。

 これらの「ケア」に不可欠なのが「データ」だ。

 例えば流行性のものであれば、患者予備軍に対して事前に対処を促すことができる。突発的なケース

では、過去の治療のデータがあれば、「突発」性が薄れることだろう。そうしてデータを利用して上手く

治癒まで至ったケースが次の「データ」としてまた蓄積されていく。

 

 「発症前」「発症後」から「治療過程・経過」。そして「治癒・治癒後の経過」。

 これらが全てそろわなければ、治療に生かせる「データ」にはならない。

 現状は「発症後」と「治療過程(投薬が主)」のケースばかりがたまっているのではないだろうか。

 だれしも「苦痛」から逃れたい。逃れた後は、今の生活に戻りたいだろう。当座の治療を終え、症状が

一段落し仕事に復帰。だが、それでいいのか。症状が再び出れば、「あの病院ではだめ」、なんて他の人

に吹聴した、なんてことはないか。

 「対処療法」という言葉は、あまり良い意味では使われない。

 とりあえず症状を抑えましょう的に使われる。それしか「手」がない場合もあるが。

 「原因」の伝え方が間違っていれば、治療がうまくいかないのは必然だ。症状の伝え方にしても同様

だ。

 患者は医師に判断材料を提供する。

 医師はそれを受け患者に適切な医療的ケアを提供する。

 こんな当たり前のコミュニケーションがうまくいってないのではないかと思うのだ。

 しかも患者側からの提供が。


    
 患者はこれでいいのだろうか。これでは「医師」もやりきれないのではないか。「蓄積」のない中「次

の」患者にどう対処するのかと医師は不安なのではないか。どんな患者に対してもしかるべきケアを行い

たい、というのは全ての医師の願いだろう。それができなければ自らの存在意義が問われかねない、とい

う現実もある。

 現在北海道内では、医師の配置が札幌一極集中の様相を呈してきている。地方に医師がいない、という

状態が確実に進行している。
 
 こんな現状打開に、「地方は困っている」という情報発信が役に立つのか疑問だ。

 研究即ケアにつながる「医師」という仕事は特殊である。

 医師が「投薬」の決定権者である、という点も見逃せない。

 「ガ○ター」といった病院で処方される薬が薬局で買えるようになったケースは、毎回話題になる。

 薬局で常に買える薬と医師に処方される薬は、当たり前だが違うのだ。

 
 お医者さんって大変だなぁって思うのである。

 お医者さんが張り切って仕事したい、って思える社会にしなくてはと思う。

 お世話になった後だけに。