犯行手口は「流行」するのか

 犠牲者の方々の冥福をお祈りします。
 誰もが思っているだろう。「なぜ」こんな事件が起こるのかと。
 「理由」はないのだ。「起きる」ことについては。「理由」があれば「いい」というわけではない。もちろん、起きてはいけないことなのだ。ただ、「続くこと」については、多少人為的要素を感じるのは、私だけだろうか。
 犯罪者になってしまった方は、前犯者の行為を知っている場合もあるだろう。「そう」すれば「動機」を全うできる、そう思うのだろうか。私には分からない。これについての「感想」をこれ以上まとめる気にもなれない。
 ただ、TV・新聞等で見受けられる「専門家」の方々のご意見には、「はっ」とさせられる。「どきっ」とするのだ。「誰に聞いたんだ」と。「そんな風に結論づけ、公表することに何の意味があるのか」と。「子ども」も聞いてるよ、と。「犯罪」を「論理的」に説明し、周りを納得させる。分別のつかない子どもが聞いて、どう思うのか。「こうだから、悪いことって起こるんだ(納得!)」と思うかもしれない。人間誰しも不調の時がある。心が弱る時がある。そんな時、「あの事件はあんな時に起きたけど、今は私、そんな気持ち」というようにならないだろうか。
  情報があふれる現代社会。ボタン一つで簡単に欲しい情報を手に入れられる時代だ。
 「人間」とはなんなのだ。「考える」ことが「生きる」ことではないのか。
 「情報」とは「判断材料」のはずだ。専門家の「意見」やゴシップも「情報の一つ」か。他に誰も反論できない「意見」は情報か。それを聞くことは一種の「洗脳」に近いのではないか。
 「いけないこと」は「(どんな時でも)いけない」以上の解釈が「犯罪」に関して必要なのかと、私は思うのだ。
 「犯罪」の事実は知らなければいけない。「身を守るために」「生きるために」。ただ、その分析は個々人のものではないか。「専門家」の意見は、実際の捜査に役立てて欲しい。そして私たちは、「いけないこと」を「いけないこと」と自分で再確認するのだ。