「怒り」は必要なもの。

 「みっともない」「手が付けられない」「恐ろしい」

 「怒り」には、ネガティブなイメージがつきまとう。

 実際そんな理由から、私も、子どもの時から「怒り」を表に出さないよう努めてきた時期が長かった。


 ただ「怒り」を必要なモノ、と医師に言われれて長い時間は経て、ある時実感した。

 そうなのだ、と。

 「欠かせないモノ」と言っていい。


 結果生まれる、社会的に認められない行為は当然許されない。

 しかし「内的」な「怒り」を認めないことは、「生きること」を否定するモノなのだ。

 感情の絶対値的な視点から、「怒り」の振幅が浅いと「感動」の振幅もわずかなモノになってしまう。


 そんな感覚は、前から持っていた。

 新しい感覚は、「怒りは、大切に生きてきた証」的な考えから「実感に」至った。

 大切に創ってきたモノだからこそ、「悔しい」「惜しい」「許せない」といった感情が起きる。


 ただ文章を打っていると平板だか、「内的」な変化としては大きいモノだった。私には。

 「怒り」を感じるたび思うようになったのだ。

 あぁ大事にやったからこそ、こう思えるのだ、と。