「英語嫌い。」

 そんな人が多いだろう。
 
 私も、そう得意ではない。「文系」のくせに。

 テストのために、入試のために仕方なく学ぶ。ほぼ100%の人がそうなのではないか。実情は。


 当然なのだ。今の世の中。日本の中では。

 なぜか。

 単語は多く知られているのに。「使える英語」はそこにはない。コミュニケーションの道具としての

「英語」はないのだ。

 
 英語を使いこなせない私が言うのも変だが、「日本語」も「英語」も「ポルトガル語」もないのだ。

 境目が、だ。

 「日本に生まれて日本語が下手に育った」「この子がアメリカで生まれていたらなぁ。英語なら使えて

いたのになぁ」なんてことは、ありえない。


 「言語」というものは、「言語」のために学ぶのではない。

 赤ちゃんは、親に自分の今を「伝え」なくては生きられないから、我知らずよりよく伝わる方法を自得

していき、いつしか自分の意思を伝えられるようになるのだ。

 初めは「生きる」ために獲得した「言語」。


 より成長するに従い、「言語」の使い方は、「生活の質」を向上させるため、つまり学ぶために、一層

の進歩を遂げる。誰しも、幸せになりたいと願うのだから。

 貪欲になって当然だ。自分の人生だから。


 その過程で他国の文化さえも自分のものにしたいという欲求が生じた人がいる。

 「第二外国語」の獲得欲は、ここが原点だ。

 「他国の文化を吸収したい」。幸せ(漠然としているが)のために、と。


 テストのために、英単語を暗記する。結構だ。

 入りたい大学のために。結構だ。

 しかし、(私も含めて)なんとなく英語を勉強している人たち。続くわけがない。上記のモチベーショ

ンでは不可能だ。


 「私はナンシーです。はじめまして。」「けんじです。はじめまして」

 これで英語を学ぼうという人がいたら、とてもすごい人だ。(もちろんいると思う。将来が見えた人

が。)

 まず簡単な英語から・・・。という考えが間違っている。英語教育は、いつ見直されるのだろう。


 今一番知りたい知識をぶつけるべきなのだ。

 子どもにプレステ3のソフトを買うことを許可する。しかし、マニュアル、ゲームの全てが英語表記、

と仮定する。子どもは、辞書を買って、というだろう。極端な話だが、真実が一理入っているのではない

か。親が整えた状況ではなく、そういった状況が不可避な現実であれば、より真実味を帯びる話だろう。


 明治維新の頃の話を書いた司馬遼太郎さんの小説「花神」。

 これには、オランダ語を学ぶ日本人が登場する。

 司馬さんの本の中でも私のお気に入りの本だ。


 「日本」が大変革を遂げる際に、「異文化」を学ぶ日本人。そして新たな文化(英語)の予感。

 話の主筋から外れているかもしれないが、人間の「学びたい」という気持は、かく起きるのかという思

いが、感想の中に一つあった。

 「学ばされて」いるようじゃねぇ、と自分の過去を振り返り、苦々しく思うのである。