「会話」しよう

 この一日、何人の人と会話をしただろうと考えてみる。何気ないあいさつから身の上話。連絡事の伝達、業務上の報告と様々だ。初対面の人は少ない。見知った人が多い。この人の好きなことは何か。何を知りたいのか・言いたいことは何かと配慮する内容も多岐にわたる。今日も上出来だった(と思う)。こう書くと、私がえらく尊大で失礼な人間に思えるだろうが、相手の気持ちを大切にしたい、相手との関係を大事にしたいという気持ちの表れだと理解していただきたい。
 数十年生きてきて、思う。人は何かを「言いたい」のだと。「表現したい」と言い換えてもよい。その気持ちは、「食べたい」「飲みたい」といった、生存に不可欠な欲求と同格だ。もしこの「表現」という行為が適切に行われなければ、人生の「質」に影響してくるのでは、とも思う。
 「言う」は声に出す必要はない。頭の中で思うだけでもよいだろう。一般に「無口」と見える方は、その頭の中で「表現」を完結させるのが「上手」な人なのだろう。ただ、その「表現」が行動に結びついていなければ、そのズレが「心に」「ストレス」として蓄積しているかもしれない。
 「会話」の際、私は、自分との関わりが薄い人ほど、まず話を聞き出すことに努める。関係が厚くなるほど「聞くこと」に専念する方もいる。反対に、私からの話を多めにする方もいる。押したり引いたりだ。だが、基本のスタンスは「聞き入ること」。「会話」は「言葉のキャッチポール」なんて言い方もある。まさにこれ。私の場合、まずボールを受けることから始めるわけだ。「表現」の大切さは、自分においても当てはまる。私自身が「表現」するためにも、忘れてはいけないことだと思っている。