「成人式」は「大人になったぞ式」か。

 埼玉県で逮捕者がでたそうだ。
 この人は幸運だ。おそらく、新成人でトップをきって「罪」の一つを知ったのだから。
 ただ、「成人式」本来の目的に照らして、どうだろう。
 「新成人」に「悪いこと」が何か、を教える「式」だろうか。
 「成人」というのは「大人」ということか。「人に成った」という意味で「成人」という意味なのだろう。それならば、ある教育の過程、言及すれば「何がよくて、何が悪いのか」ということを既に「経て」いる人たちではないのか。
 私は「子ども」と「大人」の境目など存在しない、人は皆「人」だ、と考えている。それでは「成人」という節目は、現代においてどういった意味を持つのか。
 世間一般の「成人式」といのは、以下のように考えられているだろう。

 「周りの人間(大人・子ども)が新成人を認知する」場

 「集団生活における地位の向上・責任(集団を支える人間としての)の付加」を立会人の元、公表する場なのだ。「何か」を学ぶための場ではない。また、若者からの「メッセージ」を期待する場でもない(極論だが、成人式の「意味・目的」という観点からすれば)のだ。「成人式」は誰のものかを考えた場合、「大人」のためのもの、なのだ。
 ところで、「子供」は「大人のお供」だから「子供」という字が当てられた、ということを知っているだろうか。子どもは大人の奴隷的存在(売り買いまで存在したでしょ)、という歴史があったのだ。(だから私は「子ども」と必ず書く・打つ)
 人間という種の「集団」があり、その集団の維持に必要なこと、つまり食料確保のために何が必要か。農作業・狩り(漁、猟)等だ。そしてその行為のために不可欠なのが「体力」である。「男尊女卑」「子供扱い」といった差別的な思考は、ここから出発している。
 ところで現代。「力」頼みの価値観に変化が生じた。そのキーワードの一つは「機械化」である。少人数で食料が確保できるようになり、余剰な人間は、「製造業」「サービス業」へと転じていく。
 「筋肉」ではなく「頭脳」を使った「発想」が、「社会」を支える「新たな力」と成ってきたのである。「発想」は「子ども」でも「女性」でも「筋肉ムキムキの人」でも誰でもOKだ。「男女平等」「子供の人権」等のことばが、当たり前になってきたのは、こんな「流れ」があるわけだ。
 「子ども」が「二十歳前」でも社会の構成員として認められている現在、「成人式」というのは、どんな意味を持つのか。どんな目的で行うべきなのか。現状では、「もう悪いことやったら(新聞に)名前が出ますよ」と「学ぶ」場でしかない。ただこれも、法律の処罰の適用が下がれば、意味がなくなってしまうのだが。
 「大人」は祝いたいのだ。若い皆さんが、生まれてから二十歳まで、無事に大きく成れたことを。中島みゆきさんの「誕生」という曲を知っているだろうか。この歌は、自分の想う人が「この世に生まれてきたこと」に素直に「感謝」している気持ちを歌ったものだ(と私は思っているのだが)が、まさしく、そんな気持ちなのだ。「大人」のそんな気持ちを汲んでもらいたい、というのは無理だろうか。私たちに純粋に祝わせて欲しい、のです。「若者」のための「大人」の式に。
 私もそんな式なら出たかった、と思っている。そんな「成人式」を創りたい。